202207020 補足:
いま騒がれている日本の精神的な弱者を食い物にしてきた統一教会という朝鮮半島のカルト宗教団体の危険性はこのブログを書いた時から指摘をしていましたが、やっと一般の人にも浸透してきた次第です。俺は前から知っていたという人がいますが、じゃあなぜ問題視せず言わなかったんだ?
この宗教団体は、半島の怨みから反日思想をもちながら共産主義と戦うという狡猾な戦後の問題を利用して、実際には「反共を謳って反共運動をしていないが戦後から自民党とお互いを利用し、彼らが得するための憲法改正を始めるまでの権力の増大を見せているわけですが、自民党がこの宗教団体のために政治をおこなっていることが証明されつつある今、同時に日本のナショナリズムを破壊する運動が展開されてきたことをここで食い止める必要があります。ただし彼らカルト宗教の根本目的は、国を壊したい欲求ではなく教祖様及び幹部の権力とカネのための運動です。
その運動に悪用されてきた、国益や國態やナショナリズムを軽んじられてきたことの反省をするならば、我々自身がナショナリズムの本当の意味を理解してなかったということが問題だと思っています。
本ブログは、昨年書いたブログを読みやすく再編集したものとなります。



はじめに

本ブログの目的は、ただしく「国家」の有り様、「日本のナショナリズムは稀なもの」であることを皆が理解することで、ただしい「国家観」を共有すること。
そして「国家」における「国防」が重要であることを明白にすることを目指します。
これを何回かに分けてブログで書いていこうという試みです。


前回は、領域国家の権力と個人について歴史の中で形成された裏付けられた定義を、体系的に頭出しをしました。
今回は、「領土とナショナリズム」について重要な要素となる「ネイション」とは「ネイションイズム」つまりナショナリズムであり、国民主義である。
また、国民とは国家という共同体に属するという意識を持った人たちのことであることが条件であり、国民を守る国家という境界線を示した地図の話である。

過去の解説ブログ
http://amachan007.techblog.jp/archives/35391166.html
http://amachan007.techblog.jp/archives/35444430.html




領土とナショナリズム

今日「領域国家=主権国家」は、概ね「国民国家(ネイション・ステイト)」という形態をとっている。
さしずめ近代においては「国家」(ステイト)が「領土性」を強く帯びています。

これを簡潔に説明するならば、国家とは秩序で定義づけられているわけではなく、形のある領土にしか存在し得ないということです。


それでは「国民」(ネイション)は「領土性」とどのような関係にあるのかについては、単なる人々を表すピープルという概念ではなく、あえて「ネイション」と言い表すのは、政治的共同体(制度や権利や義務の体系を有する共同体)の一種としてのパッケージとしての総称であり、この共同体の中の結びつきと考えるからである。

つまり共同体に属していない人はこの世にはいませんが、ロヒンギャの方のような国家を持つことができない人がたちはネイションではないわけです。共同体に守られていないつらくて厳しくて弱い人たちなのです。これだけでも共同体の大切さがわかるかと思います。

社会学者アンソニー・スミス曰く、ネイションの概念は社会学的に「シヴィック・モデル」と「エスニック・モデル」があるという。
  • 「civic」とは「都市の」「市民の」という意味
  • 「ethnic」とは「風俗・習慣」「文化・伝統」=「民族的」という意味

そして、
  • 「シヴィック・ネイション」とは、西洋型モデルで、法制度の共有・法的・政治的平等。すなわち歴史的領土の保有であることから「領域ネイション」と言われる。
  • 「エスニック・ネイション」とは、非西洋世界モデルで、家系や血統・文化・言語・習慣を強調するネイションである。

ネイションについては、両方の要素を兼ね備えているといえる。


例えばフランス革命下においては、法的・政治的平等を掲げつつも、 フランス語やフランス文化といったナショナリズムとしての誇りも同時発生させたわけです。これはシヴィックとエスニックが含まれているわけです。


これらを踏まえスミスはネイションについて定義を試みました。
つまり、ネイションとは「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通の経済、 すべての構成に対して共通の法的権利義務を共有する特定の人々」のことをいうのであって、「ネイション」は「領土」を必須の構成要素とすると定義づけました。

実際に地図を広げれば、近代においては「国家」(ステイト)もまた「領土性」を特徴としているのが一目瞭然である。日本国家に何の許可もなく勝手に他の国籍の人が住めないですよね。



ネイションの概念
  • 一定の集団の構成員が互いを同じ国民だと思う限りにおいて、その集団はネイションなのである。=国民国家である。
  • 同じ国家に帰属する民族や人民であっても互いを同じ国民と認めなければ、その国家の人民はネイションではない=国民国家ではない
  • 人種・民族・言語・宗教が違う人でも、お互いに同じ国民だと 「意識を共有」していれば、彼らはネイションと呼べる。

これらを補足するならば、
  • 世界を見れば、スイス・ベルギー・アメリカはじめ、多民族で構成されるネイションがほとんどである。
  • 日本のように民族的・言語的に同質性が高いネイションは珍しい。

政治学者のベネディクト・アンダーソン曰く、「ネイション」とは、極めて想像的で国民意識的で主観的であり、その概念として「想像の共同体」であると結論づけた。



ネイションの想像

  • 歴史学者のアーネスト・ゲルナー曰く、ネイションという「意識」を創造したのは近代産業社会であるといった。
  • 高い移動性・発達したコミュニケーション能力・教育システムにより 、慣習・地域共同体・伝統的地位に拘束されず、広範囲の交流により、標準言語と画一的な文化を共有するようになった。
  • この「画一的な文化の共有」こそが、人々の間に同じネイションに帰属しているという意識をもたらす。
  • ベネディクト・アンダーソンも、資本主義が、印刷出版の普及を通じ、人々に共同体の構成員である意識を芽生えさせ、 教育や行政などにより、意識的にナショナリズムを注入したことで「ネイションの想像」が形作られたと論じた。
  • 近代国家が、近代産業資本主義のもたらすコミュニケーション発達や教育制度により「ネイションの想像」を生み出していると結論づけられる。
俺は日本で大和魂があるはずだって考えるのは、生まれながらに理解していたわけでも、喉が渇いたから水を飲むという生理的なものではなく、誰かからの意識づけがあって、またそれを認識する必要があって、共同体の役割を実践することが社会をより良いものにするという結果的な共同体意識が、ネイションに属しているという想像に至るということ。



想像の共同体の制約
  • ネイションという「想像の共同体」が生み出されるのは、 [近代国家]⇨[個人に権利と義務と公的サービスを提供]⇨[個人は同一の政治共同体に属していると想像する] ⇨[国家運営に関与しているという一体感を得る]⇨結果人々に「ネイションの想像」が伴うからである。
  • 近代国家の多くはこれらの理由により、国民主権つまり「国民国家」という形態を選択する。
  • 「近代主権国家」は「領域国家」でもある。「ネイションの想像」が及ぶ範囲は「領土」の内部に留まる。そしてその境界を超えれば「他の領土」である。
  • 宗教的・民族集団の(エスニック・グループ)共同体は「想像の共同体」ではあるが、国境にとらわれずに存在し得る。 例えば他国にいる日本国民や宗教的グループ(※)などがそれにあたる。
  • これに対して「ネイションという共同体」は「領土の制約」を受けるが、領土の範囲を示す「地図」がネイション形成において役割を果たす。

※この宗教的グループというのは統一教会的な共同体意識のない金と権力のつながりのカルトビジネス集団ではなく、シャーマンなどの土着化された風習、そして神聖な気持ちの信仰心のことを意味する。けしてお金で運営される営利集団に祭り上げられるカリスマが書いた経典を信じることではないことを強調する。重要なのは感謝という信仰です。
カルトな宗教につては、純粋な気持ちで救いを求める思いと、それを利用する側があり、そういった構造の宗教は共同体の敵であることは間違いがなく排除されなくてはならないが、例えば亡くなったときには、日本だろうがアメリカだろうがイスラムだろうが、お墓に入るまでの間は風習伝統文化により行われる一連の儀式も、もちろんその共同体が認めてきた宗教的行事といえるとおもいます。お金は払っているんですけれども、それは宗教信仰に払っているのではなく、故人のために払っているという、やはり共同体のつながりであり、人の思いです。



地図の重要性
  • アンダーソン曰く、オランダに植民地時代に、多民族のインドネシアの人々におけるナショナリズム形成は 「人口調査・地図・博物館」が重要な意味を持った。 中でも地図は支配領域の意識と想像に役立った。その領域内における絆が強まったからだ。 そして独立後もそれは維持された。ちなみにインドネシアの事例と同様に、他の国でも植民地から解放された後もその国境を維持し続けた。
  • つまり「地図」が「国民統合を促す上で」重要な役割を果たしたのである。


共同体の象徴
  • 共同体は想像であるため物理的存在ではない。だが人は実感を与えてくれる「象徴」が必要となる。
  • 「ネイション」の場合、歴史・文化・言語が挙げられ、「領土」も象徴の一つである。
  • つまり「想像の共同体」の建設は「地図」が必要であり、それを作成・設計する官僚制国家機構と、 構築をする産業技術や測量技術を必要とする。

地図を見て境界線に線引きをして共同体を構築するために設計をし構築をしていく。
こうして共同体、つまり国民国家「ネイション」は、制約の中で、制度を通して形作られていくわけです。
そして共通した想像がない人々が共同体を構成することができない。


ーつづくー

領土とナショナリズム



といことで、今回はここまでとなります。


そんなことわかっているよ!という人がいるかと思いますが、本当に理解しているのでしょうか。少なくともほとんどの人が理解していないんではないかと思っています。私もわからなかったから学んだわけです。

そういう適当なことをいう人が根本を理解せず、軽々しくナショナリズムを語り、継続性を嫌うのに保守を語り改革を推し進める政党を支持し続けが結果、日本が壊れているのですから、まずは自分が流されやすく移ろいやすく誰かを貶めて理を得る愚かな人間だということから理解して、共同体について理解してからはじめてナショナリズムを考えてください。

そうでないと間違いを繰り返すだけです。


経済及びナショナリズム研究と保守思想を信条とした社会学言論人がこの世に何人いるでしょうか。中野剛志(なかのたけし)氏が、「まだ間に合うかもしれない、だから日本滅亡するまえに緊縮とグローバリズムに国家が破壊されているのだから、国家とか国防の意義ついてちゃんと理解しませんか」というメッセージを込めた著作「富国と強兵」から、ポイントを体系的に頭出しをしました。


書籍を見ていただければわかりますが、本来保守を理解した言論人が人生の大半を使って最後に書くような内容を、40代という若さで書き示せたのは、おそらく彼が本を読むのが異常に速い(本人談)ために得られる情報量の深さということもあるが、社会学者であること、ナショナリズムの発祥の地でナショナリズム関連の博士号を取得したこと、そして歴史から学ぶというエビデンスを重要視し、体系的に起源と結論を「地政経済学」という新しく本来当たり前の概念の正当性の論証と最適解を提示していることから、驚異の国家マニュアルになり得たのは、彼が日本の素晴らしい古典、そして数々の国学に触れることにより国家観というものを理解していたからであり、「国民統合一致団結」が共同体の原動力であることを説き、合理的経典的な理屈抜きの「ドグマティズム」ではなく、臨機応変に全ての事象を活物と捉える「プラグマティズム」の思考でなければ物事を解決できないということを歴史という事象を、しっかりと捉えていたからに他ならない。


経典を持つ宗教を信じる合理主義が何故ダメなのかについては、前回論じたところですが、今の日本は新自由主義に見られる通り、誰かの利益のために作られた経典に合わせることで、流されやすく移ろいやすい大衆は目空いた安心感を得るため、一生懸命だとか誰かを助けるだとか支えあうという共同体に必要な「徳」を自ら捨て、最終的には原動力である経済という「得」までも自ら低迷させ、共同体を破壊しているわけです。今の緊縮財政とはこういうことなのです。誰がやっているかということです。

あなたが緊縮をしているわけではないですよね、私が増税をしているわけでもない、得をする誰かが国民を苦しめているのに、自ら緊縮に手を合わせている宗教から脱却できればいいのですが。それをお国のために国民は我慢をしろわがままを言うなというのが、ナショナリズムではないと理解できる自称保守がどれほどいるんでしょうか。自分が保守だと言っている人で、積極財政を訴えている人間など一握りしかいません。それはどんなロジックかといえば、今説明したとおりお国のために我慢することが保守なんだということです。頭が悪い人間が増えすぎました。

社会学においては「ロックイン」という概念があるそうです。
つまりスマホやキャリアの初期費用については0円でいいよっていう囲い込みビジネスですね。最初はお試しでという売り込みに誘われたわけですが、新しいスマホが出るたびに更新しないと、そのメーカーのスマホから他に乗り換えるにも膨大な手間が発生し、ずっとそのスマホ会社を使い続けなくてはならなくなる。ということがありますね。スマホだけではないでしょう。この囲い込みの方法をロックインといいます。


グローバリズムにおける自由貿易もそうで、今は落ちぶれましたが当時はアベノミクスの主要理論であったリフレを推奨していた経済音痴の上念司さんのような全体主義者が、「自由貿易は一度試してみて嫌だったら抜けちゃえばいいんですよー、反対しているやつらは頭が没落してるんじゃないですかねー、某国バカですよー。ジャンピング土下座をしてもらいたいですねー、ファンネルつかうほどでもないですよー」という発言をしてましたね。彼がおろかなのがこの言論でも分かる通り、ロックインという社会学について理解していない知能指数であることが理解できます。

彼のような小物を例にだしましたが、そういう論者としては、大前研一や高橋洋一や竹中平蔵や三浦瑠麗などの合理的新自由主義者がいて、その結実として、いまの物価高、食糧危機、エネルギー高騰の問題がおきてしまいましたが、彼ら自由貿易緊縮政策論者が全体主義で抵抗する権利を持つ国民を弾圧してきた結果であるわけです。


自民党が公約を無視して参加した、アメリカに国際秩序に守ってもらうために貢物として参加したTPPは、結局のところアメリカが抜けたわけですが、その際に提示された膨大な自由化リストに載せられてしまった、食の安全保障として守らなくてはならない農業や、日本の強みでもある精密機械産業などは破壊されてしまったわけです。安い海外労働力の前に。

それに対抗するためにこんどは移民を受け入れるという政策を行い、実質賃金が下落し続けるという、負のスパイラルにいつまで耐えられるのでしょうか。

本来ナショナリズムを持っていれば国民主義として日本の産業を守らなくてはならなかったんですが、その後はさらなる大国への属国精神により、関税撤廃が盛り込まれる不平等条約である日米FTAが締結されてしまったわけです。

何度も言いますが補足長い島国と、でっかい大国で、ヨーイドンで農業をやったらどちらが大量に生産できるのでしょうか。しかもアメリカ政府は農業従事者に所得の補償をしているし、売れなくなった農製品は備蓄率を上げるために買い取っているわけで、日本と戦ってこいと言われたらアメリカはノンリスクで駆逐することができてしまったわけじゃないですか。それが大麦などの穀物不足です。

日本の農家は、安倍さんから岩盤既得権益だと揶揄され、大衆は熱狂して、農業従事者を攻撃しましたね。これは特に保守を理解していない、保守を自称する馬鹿な人に多かったと思います。あえて言います、愚かな人です。反省してほしいと思いますね。


いやいや日本は神の国であるから外敵には断固として戦うし、日本の親友のトランプUSAでさえも、一線を踏み越えたらゆるさんぞ神国日本は!とか抜かしている馬鹿な老害戦後保守もいますね。
早く死んでほしいと思います傀儡精神は性根から腐っているからだめです。


そもそもなぜ自民党が進んで国際協調の枠組みに入りたくて自由貿易で自滅していくかといえば、国防をアメリカに頼りきっているからです。ようは安倍晋三の日韓合意やロシアへの北方領土返還されない交渉のATM外交を見れば分かる通り、本気の国同士の喧嘩ができずに、まさきに頭に浮かぶのは「責任を取らされたくない」わけです。

世襲の政治家が責任を取りたくないので謝罪しまくっているわけです。ですがそのばら撒いているお金は、国民つまり先人の貯めてきた対外資産を使って。自民党の金でもなんでもないのに安倍晋三は手柄にしていったわけです。

こうして日本が戦えなくなった外交を続けた結果、アジアのリーダーは中国に変わり、北朝鮮には脅され、韓国からはおちょくられ、西洋諸国からは「少し交渉すれば金をくれるだけの国」ということで、経済成長も自ら止めたアベノミクスの堕落のおかげで、世界から軽んじられたのは、平成から令和の即位の儀の比較においての各国の要人の参列をみればわかりますね。

安倍さんが亡くなったときに世界の主要な人が弔問に訪れるといいましても、なんとか長官や、元大統領などですから、これを外交面デメリットがあるという詭弁は、冷静に考えればわかりますよね。

そういうことを運動員に言わせてきたのは統一教会勝共連合のネトウヨという宗教に堕落した共同体を破壊する大衆なわけです。


今の経済的にも崩壊し、貧困化は加速し、格差は拡大し、食糧危機のために昆虫食を政府が推奨するようになった、新自由主義というイナゴに食い荒らされ崩壊寸前の共同体の日本。

これは自民党が自ら招いたわけです。


そういう意味において、このナショナリズムとさまざまな国民つまりネイションを守るための安全保障=国防について、国家の領域の線引きがどんどん小さくなっていく前に、国民全員が「一致団結」することの意味を理解することが重要だと思う次第です。

特にこの国は、政治と宗教が結託して共同体を破壊しているわけですので、そのことについて警笛を鳴らす人を宗教信者が国民になりすまして攻撃をして、みんな黙ってしまうわけですから、体臭ではなく大衆になった方が楽チンですね。これが戦後の大衆が大好きな思考停止です。


なんども言いますが、もう遅いわけです。
時計は巻き戻せませんからね。保守を自称してなんだかよくわからないことで一生懸命枝葉と格闘している人がいて、その枝葉を折るために来年には枝が伸びるのに、高枝切りバサミを自民党から借りちゃっているわけです。

それでも、運命は変えられます。
少ない可能性ですが歴史でもそういう場面がいくつかあったそうです。

そしてその少ない可能性にかけるのであれば、大衆が共同体におけるナショナリズムを理解できたのならば、八百万の神様がまた日本国民に手を貸してくれるやもしれない。

運命や宿命そして天命には逆らえませんが、自分の信じる道だけは正しく歩きたいものです。
それが生きることの意味なんじゃないかと最近思う次第です。




富国と強兵―地政経済学序説
中野 剛志
東洋経済新報社
2016-12-09



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