はじめに
前回の続きとなります。



本ブログの目的は、ただしく「国家」のあり様、「日本のナショナリズムは稀なもの」であることを皆が理解することで、ただしい「国家観」を共有すること。
そして「国家」における「国防」が重要であることを明白にすることを目指します。
これを何回かに分けてブログで書いていこうという試みです。
前回は、領域国家の概念について歴史の中で形成された裏付けられた定義を、体系的に頭出しをしました。
今回は、「領域国家の権力と個人」について、世界の国家の変貌における歴史から学び、どういった構成要素になっているかというのを簡潔にまとめたものです。
ここではグローバリズムと国家についても簡潔に説明をしています。
それでは始めてみたいと思います。


領域国家の権力と個人
近代の国家理論は、国家を既存の社会構造が置かれている「場所」に還元して説明しようとしてきた。
例えば、
  • 自由主義にとって国家は、人々の一般意志や共通価値が表現される「場」にすぎない。
  • マルクス主義にとって国家は、階級や利益集団の闘争の「場」にすぎない。
「国家とは何か」という論争において、そのことについて論理的に解明してくうえで重要なのが国家を統治する上で必要な「政治権力の概念」であり、それは二つあって「専制的権力」と「インフラストラクチャー的権力」に分けられます。
これによって、「主権国家」が必然であること、「個人の権利の追求がグローバリズム」であることがわかるかと思います。


それでは歴史を正しく捉え精緻化した定義づけを行うこととする。
歴史社会学者のマイケル・マン曰く
  • 国家をそれ固有の自律的な権力を有する主体と理解すべきで、 その起源は「領土」にあると主張する。
  • 政治権力の概念=「専制的権力」と「インフラストラクチャー的権力」に分ける。
  • 「専制的権力」とは、市民社会と調整することなく、国家エリートが独善的一方的命令によって人民に強制する力。
  • 「インフラストラクチャー的権力」とは、市民社会と交流し調整しながら「制度」を通じて政治的決定を執行する国家の能力。

これらを踏まえ、社会制度における政治権力をみていくと、

①資本主義の民主国家の政治権力

「専制的権力」は弱く「インフラストラクチャー的権力」は強い。すなわち国家による行政サービスにより人民を管理する。(通貨はインフラストラクチャーの最たるもの)

ちなみに、「資本主義」とは、国政によってよりも営利目的の個人的所有者たちによって貿易と産業がコントロールされている、経済・政治システム。封建制以降の産業革命やフランス革命以降にイギリスやアメリカがこの制度で台頭した。
「民主国家」とは、民主制を取る国家で、国民が主権たる国家。間接民主制により市民(国民)が直接、もしくは自由選挙で選ばれた代表を通じて、権限を行使し、市民(国民)としての義務を遂行する統治形態。


②中世の封建社会国家の政治権力
「専制的権力」も「インフラストラクチャー的権力」も弱い。
  • 日本においては鎌倉から江戸時代のことを指す。
  • 欧州においては領主と宗教の司祭や貴族などの権力がアンバランスであったので対立が起きていた。つまり領主の力が弱かったことがうかがえる。

ちなみに「封建制」とは、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度であり、諸侯たちは、領有統治権の代わりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。


③古代エジプト「王朝」やローマ「帝国」の政治権力
「専制的権力」は強く「インフラストラクチャー的権力」は弱い。

ちなみに「帝国」とは、古代より、皇帝の支配する統治体や、複数の政治単位を統治する広域的支配を指し、近代以降は、植民地を領有する国家を意味した。
*わたくし個人の見解としましては、日本においては帝国と名のつく時代があったが、すべて仕掛けられた戦争において勝ち得た領土を、強制的に民衆から強奪するという植民地化をしたのではなく、その領地に国家を築いたので、帝国主義とはいえない。


マイケル・マンが提唱した概念である「インフラストラクチャー的権力」の優位性についてみていくと
  • 「インフラストラクチャー的権力」のほうが「専制国家」よりも国家権力は強力である。 なぜなら社会を一元的に管理できる中央主権的な公的権力が存在するからです。
  • 公的権力の中央集権化や一元化を「領土」内で実現した国家形態こそが「領域国家」である。
  • 「インフラストラクチャー的権力」は「領域国家」を起源とする。
  • 「領域国家=近代主権国家」は、血縁や主従関係から解放し、個人の自由や私有財産の「権利」を認める。 その代わりに個人に対して「義務」を課した。法的に身分を保障される。
  • 近代的個人とは「領域国家」によって生み出されたもので、「社会契約説」が唱えるように、 「個人」が国家を想像したのではなく、国家が「個人」を想像したのである。
  • 人間は「主権国家」により「権利」を付与される。かつ「権利」を保障されることで初めて 「私」「個人」といった権利主体として存在し得る。
  • 難民はいずれの主権国家の管轄範囲にも受けれられていない。従って自律的な「個人」として 生きていくことは事実上不可能である。国家から保障を得られないからである。
  • 「主権国家」=「領域国家」こそが、人間が「個人」という権利主体として存在するのに不可欠な制度装置である。 「近代的個人」とは「インフラストラクチャー的権力」に「依存」する存在であるということ。
  • その自由意思により領土を超え領域国家の管理下から逃れてしまう個人もいる。 これが「グローバリゼーション」という現象である。
  • グローバリゼーションも「領域国家」の産物である。 多国籍企業に属する個人も、非政府組織活動家も、元々は母国の政府から「自由権」を付与されパスポートを与えられている。 なぜなら難民は国境で足止めをされる惨状をみればわかる。

さて、今回はここまでです。
ここから学べることは、
・主権国家により強大で生きていく権利が与えられること。
・グローバリズムは国家があっての産物であること。
・個人の欲望から生じる「自由主義」つまりリベラル・ネオリベが、国家という共同体の恩恵をうけていることを理解せず個人の権利を主張し、共同体を壊している。
ということですね。

前回、宗教が国家にもたらす合理的な破壊行為について解説をしました。
一番みてもらいたい「まとめ」にたどり着く前に心折れてしまった(笑)人も少なくなかったと思うので、今回は巻末のここで論じたいと思います。
そのため、「お前の私見はいらねーよ。」ってかたはここで読み終わっていただければと思います。


上記で登場した「国家の番人たるエリート」とは、富裕層や有名な大学に出ている人ではなく、社会に貢献するために直接支配や指導を行おうとする意識を持つ人のことを言います。
実際には行政の提言を行う官僚や各行政組織の責任者や公共政策に携わるような人などがそれに当たるでしょう。(商業的なエリート概念は論外です)
昔の人は、国際金融資本だの、ユダヤだの、憲法だの、国防だの、論語だの、そういう哲学や思想や世界情勢について、多くの国民が国家目線でお茶を飲みながら休憩時間に話していたらしいですね。
まあなんども言いますが、特攻隊の遺書を見ればわかる通り、高度な教育を受けていることが文章に現れています。ようはメタファーという比喩を使って心情を語っているんですね。
それに比べて現代の我々はどうでしょうか。言葉を発する時に思考を伴わなくなってしまいました。どう表現するかというより心情をストレートに言ってしまう。それがわかりやすい文章と教わってしまったんですね。
そして、我々とは初めから気概の違うエリートというものが目指すべきのはなんなのだろうと考えた時に、「何のために何に対して貢献する」ということでなくては意味がないんではないだろう。と思うわけです。
なぜかといえば「自分のために」ということは当たり前のことで、そこには「宿命」や「大義」などはないわけです。
エリートとして「誰かのために」という概念を加えることではじめて「大義」や「宿命」を意識した結果「徳」が生まれるわけです。
ですが、財務省のエリートを見るに、自分の資産を増やしすための出世に終始する「自己満足」が蔓延しているわけで、腐った政治家がいるこにより「得」を得ようとしているにすぎません。

また、前回もお話しした通り「共同体」を否定しているという理由から結論づけるに、この世を悪しき道に導くと結論づけられる「宗教」が絡むと、強制的に信じなくてはならない「神」という「その人の起源が共同体の後に生まれた西洋の領民の統治手段」に対して信仰を迫るわけで、そこには人が生きていくために必要な家族などの「共同体」には還元されず、逆に「単なる恐怖心から解放という洗脳による統治手法」である「宗教」には、「共同体」は邪魔なんですね。ですからボーダレス化・グローバリズム化が進めば進むほど統治領域が拡張するため、宗教にとっては都合がいいわけです。
結果として宗教のゴールは信者が汗をかいて信仰することにより、カリスマや周りの権力者司祭が「徳を受け徳をする」という特権ビジネスが存在するわけです。
恐怖心を救えるのは人間の過去からの哲学の積み重ねから得られる思考だけですが、合理的に救うというのはビジネスにほかなりません。
従ってGODという合理的なものに頼るのは、国家が磐石でないことの裏付けでもあるわけですね。従って仏教・キリスト・統一・創価はじめ勧めてくる人間というのは国家を理解していないということになります。共同体が何なのかがわからないのです。神を信じる行為は本来の助け合いの共同体とはいえません。極端にいえば「神が殺せ」といえば共同体同士殺しあうわけで、それはイスラム・キリスト教の宗派の対立の歴史を見ればわかるでしょう。助け合ってないです。

従って国家を強化するにはまず国民の意識が重要であって、その畑の土壌が綺麗ならば、エリートも本来の気高さを兼ね備え、政治家は国士たらんわけです。
それをどう解決すればいいのかわたしにもわかりません。道徳があるかどうかも一理あるでしょう。
ですがそれではあまりにも合理的な押し付けになってしまい、本当の彼らの改心や土壌改良には至りません。

全ての人の生活の礎である「国家」というものがどう形成されていくのか、なぜこういう形態になっていったのかを歴史から紐解くことで、その答えが見えるのだろうと思うわけです。
それが本当に「理解」して「心に刻む」ということなのかもしれませんし、ものすごく難しく簡単ではない規範となる「保守」という人がやるべき「言論活動」なのだろうともいます。

日本においては天皇が国を造り、途中政治権力を捨て(聖徳太子以降)、その皇祖神たる権威を持って、先人たる国民が一致団結をして、五穀豊穣を祈り、商売繁盛を感謝し、祀りごとを神社で行い、人和は語り継がれ、政治は仁愛精神を誰もが理解し、国民生活を安寧にするために共同体の団結力を積み重ねきた。
しかしながら日本の政治は、先人の思いを軽んじて、自己利益だけを追求し、いつしかグローバリズムを受け入れ国家共同体の意義を忘れてしまった。その結実として亡国に向かっている我が国において、そのことについて反省をすべき時なのも事実です。
我々は八百万の神に手を合わせてきた感謝の気持ちを忘れてしまった。
それを思い出すことは、滅亡に邁進していった日本の最後を綺麗に迎えるということにも必要なことだとおもいます。
いやしかしながら、それでも最後まで抵抗していかなければならないのです。
もう少し日本が続くためにも。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
苔が結びたる日本国家という世界最古の歴史を持つ国家が存在する意味を、我々は本気で考える時が来ているのだと思います。


八百万の神


ーつづくー

参考にした資料は以下の「富国と強兵」です。ぜひ興味を持たれた方は、「地政経済学」という中野剛志氏が提唱した経世国防のバイブルとして活用されることをお勧めします。

富国と強兵―地政経済学序説
中野 剛志
東洋経済新報社
2016-12-09




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