202207018訂正:殴り書きの箇所があったので内容を整理しました。マイケルマンの主張が箇条書きすぎて何を言っているかわからないので修正。グローバリズムを宗教と国家の番人の劣化に紐付け、ナショナリズム破壊に至らしめる私見について整理。
はじめに
前回の続きとなります。
http://amachan007.techblog.jp/archives/35391166.html
本ブログの目的は、ただしく「国家」のあり様、「日本のナショナリズムは稀なもの」であることを皆が理解することで、ただしい「国家観」を共有すること。
そして「国家」における「国防」が重要であることを明白にすることを目指します。
これを何回かに分けてブログで書いていこうという試みです。
前回は、領域国家の概念について歴史の中で形成された裏付けられた定義を、体系的に頭出しをしました。
今回は、「領域国家の権力と個人」について、世界の国家形成の変貌における歴史から学び、国家の構成要素にについて簡潔にまとめたものです。
ここではナショナリズムとの対比概念であるグローバリズムについて私見を加えることでより理解を深めることにチャレンじしてみたいと思います。
領域国家の権力と個人
近代の国家形成に関するメタ理論は、国家を既存の社会構造が置かれている「場所」に還元して説明しようとしてきた。
例えば国家を破壊してきた二つのイデオロギーをみてみると、
- 自由主義にとって国家は、人々の一般意志や共通価値が表現される「場」にすぎない。
- マルクス主義にとって国家は、階級や利益集団の闘争の「場」にすぎない。
歴史学者のマイケル・マンは、「専制的権力」と「インフラストラクチャー的権力」に分けられると説明します。
これはどういうことなのかというと、国家をそれ固有の自律的な権力を有する主体と理解すべきで、 その起源は「領土」にあるということです。そしてこられ二つの権力の概念を説明すると、
- 「専制的権力」とは、市民社会と調整することなく、国家エリートが独善的一方的命令によって人民に強制する力。
- 「インフラストラクチャー的権力」とは、市民社会と交流し調整しながら「制度」を通じて政治的決定を執行する国家の能力。
これらの権力で成り立つ国家は現代でも存在し世界を二分しています。
これらを踏まえ、社会制度における政治権力をみていくと、
①資本主義の民主国家の政治権力
「専制的権力」は弱く「インフラストラクチャー的権力」は強い。なぜなら国家による行政サービスにより人民を管理するので国力が増大するからです。前者がより独裁的であればあるほど国力は低下します。(ちなみに通貨はインフラストラクチャーの最たるものです。)
ちなみに、このインフラストラクチャー的権力により誕生した資本主義と民主制について説明すると、
- 「資本主義」とは、営利目的の個人的所有者たちによって貿易と産業がコントロールされている、経済・政治システムのことで、封建制以降の産業革命やフランス革命以降にイギリスやアメリカやドイツがこの制度で台頭した。
- 「民主国家」とは、民主制を取る国家で、国民が主権たる国家。間接民主制により市民(国民)が自由選挙で選ばれた代表を通じて間接的に、権限を行使し、市民(国民)としての義務を遂行する統治形態。
②中世の封建社会国家の政治権力
中世では「専制的権力」も「インフラストラクチャー的権力」も弱い。
- 日本においては鎌倉から江戸時代のことを指す。
- 欧州においては領主と宗教の司祭や貴族などの権力がアンバランスであったので対立が起きていた。つまり領主の力が弱かったことがうかがえる。
③古代エジプト「王朝」やローマ「帝国」の政治権力
古代では「専制的権力」は強く「インフラストラクチャー的権力」は弱い。
ちなみに「帝国」とは、古代より、皇帝の支配する統治体や、複数の政治単位を統治する広域的支配を指し、近代以降は、植民地を領有する国家を意味した。
*わたくし個人の見解としましては、日本においては帝国と名のつく時代があったが、すべて仕掛けられた戦争において勝ち得た領土を、強制的に民衆から強奪するという植民地化をしたのではなく、その領地に国家を築いたので、帝国主義とはいえないと考えています。初めから他国を侵略する国家目標を前提としていなかったからです。
これら各時代によって二つの権力の概念がどうだったかを簡潔にまとめたところで、本題のマイケル・マンが提唱した概念である「インフラストラクチャー的権力」が優位だという理由についてい以下列挙します。
- 「インフラストラクチャー的権力」のほうが「専制国家」よりも国家権力は強力である。 なぜなら社会を一元的に管理できる中央主権的な公的権力が存在するからです。
- 公的権力の中央集権化や一元化を「領土」内で実現した国家形態こそが「領域国家」である。
- 「インフラストラクチャー的権力」は「領域国家」を起源としている。
- 「領域国家=近代主権国家」は、血縁や主従関係から解放し、個人の自由や私有財産の「権利」を認める。 その代わりに個人に対して「義務」を課した。法的に身分を保障される。
- 近代的個人とは「領域国家」によって生み出されたもので、「社会契約説」が唱えるように、 「個人」が国家を想像したのではなく、国家が「個人」を想像したのである。
- 人間は「主権国家」により「権利」を付与される。かつ「権利」を保障されることで初めて 「私」「個人」といった権利主体として存在し得る。
- 例えば、難民はいずれの主権国家の管轄範囲にも受けれられていない。従って自律的な「個人」として 生きていくことは事実上不可能である。国家から保障を得られないからである。
- 「主権国家」=「領域国家」こそが、人間が「個人」という権利主体として存在するのに不可欠な制度装置である。 「近代的個人」とは「インフラストラクチャー的権力」に「依存」する存在であるということ。
- その自由意思により領土を超え領域国家の管理下から逃れてしまう個人もいる。 これが「グローバリゼーション」という現象である。
- グローバリゼーションも「領域国家」の産物である。 多国籍企業に属する個人も、非政府組織活動家も、元々は母国の政府から「自由権」を付与されパスポートを与えられている。 なぜなら難民は国境で足止めをされる惨状をみればわかる。
さて、今回はここまでです。
まとめると
・制度により国家とは国民にさまざまな権利を保障する共同体であること。
・グローバリズムとはそもそも国家があっての産物であること。
・このグローバリズムの源泉である、個人の欲望から生じる「個人主義」リベラル・「自由主義」ネオリベが、国家という共同体の恩恵をうけていることをいつしか大した問題ではないと驕り高ぶり、共同体を壊してしまう。
ということですね。
前回、宗教が国家にもたらす合理的な破壊行為について解説をしました。
今回はこのグローバリズムがなぜ悪いのかについて私見を述べさせていただきます。
上記のインフラストラクチャーつまり制度を守るために存在する「国家の制度の番人たるエリート」とは、社会に貢献するために直接支配や指導を行おうとする意識を持つ人のことを言います。
実際には行政の提言を行う官僚や各行政組織の責任者や公共政策に携わるような人などがそれに当たるでしょう。(商業的なエリート概念は論外です)
ちなみに本格的に西洋型近代国家を受け入れた当時の国民は、国際金融資本だの、ユダヤだの、憲法だの、国防だの、論語だの、そういう哲学や思想や世界情勢について、多くの国民同士で国家目線でお茶を飲みながら休憩時間に話していたらしいですね。
いまの日本において政治の話をすることは敬遠されてしまうので、日本人は民主制は向かないという意見が多いですが、昔は違ったということを聞いたことがあります。
実際には、情報を多く知ることや知識が豊富なことが大切なことではなく、考える力が必要なのはいうまでもありません。地頭が良いというものですね。
それらを踏まえると、日本国民の民度というか教育及び知能レベルが高かったことは、特攻隊の遺書を見ればわかる通り、高度な教育を受けていたことが文章に現れています。ようはメタファーという比喩を使って心情を語っているんですね。
それに比べて現代の我々はどうでしょうか。言葉を発する時に思考を伴わなくなってしまいました。どう表現するかというより心情をストレートに言ってしまう。それがわかりやすい文章と教わってしまったんですね。
さて、この国家の制度の番人である、私のような庶民とは初めから気概の違うエリートというものが目指すべきのはなんなのだろうと考えた時に、「国のために貢献する」という目的を持っていなくては意味がないんではないだろう。と思うわけです。
エリートとして「誰かのために」という概念を加えることではじめて「大義」や「宿命」を意識した結果「徳」が生まれるわけです。
ですが、財務省のエリートを見るに、自分の資産を増やすための出世に終始する「自己満足」が蔓延しているわけで、「得」を得ようとしているにすぎません。
戦後、政治や制度に関心を持たなくするように、戦勝国が統治をしやすいように教育から変えられてしまったことにより、知能レベルが低くなるにつれて比例して民度は低下して大衆化し、それにより攻撃されることをに耐えられない官僚は、新自由主義的発想を持つ献金で強力な富と権力を得ている政治家の言うことだけを聞くようになり、また財務省や内閣府の法学部のプライだけ高いエリートは、国家の安全保障よりも、自分達の安全保障を追求するようになったのだと考えます。
ここで前回の宗教が共同体を破壊する点と、このエリートの劣化について紐づけてみたいとおもいます。
この新自由主義や個人主義というのは、「考えなくていい」という一つの暗示というか、合理的な経典のようなものだと考えられます。
宗教は、人から考える力を奪い、人から養分を奪います。
それには国家の制度へのアプローチよりも個人主義に対するアプローチから浸透していきます。つまり国家権力が邪魔なので、それ自体を変えたいと常に思っています。
この人を劣化させる「宗教」が絡むと、強制的に信じなくてはならない「神」という絶対神を信じなさいと強制させるわけです。
本来あってはならない権力と金のつながり。自民党議員がほとんど政治協力者として利用している統一教会というカルト高額壺販売洗脳宗教団体も、文鮮明を信じなさいと言ってますけども、このカリスマをみた感じただの強欲なただのアジア人というかハゲてる韓国人のジジイにしか見えません。
話はそれましたが、このカルト団体も含め「宗教」には、「共同体」つまりナショナリズムは邪魔なんですね。ですからボーダレス化・グローバリズム化が進めば進むほど統治領域が拡張するため、宗教にとっては都合がいいわけです。
実際には近代の宗教は実に狡猾でして、例えばバチカンでは銀行を経営したり株を所有したり、もちろん政治家やマフィアを動かしていることは、ゴッドファーザー3で描かれました。ちなみにゴッドファザー3が一つも賞を取れなかったのは宗教的圧力がかかったと言われています。
そしてこの朝鮮半島の壺を高額で販売する、弱者に漬け込み家族を崩壊する宗教ビジネス団体は、自民党に多額の献金と、多くの政治活動員を提供し、挙句の果てには自民党に秘書や議員を送り込み、保守意識を利用し、敵を作るためにわざと反共を掲げ、日本を統一教会が儲かる社会構造を実現するため、改憲をさせようとしているわけですね。
実に狡猾ですが、これによって多くの国民が苦しんでいます。
実際に統一教会は公安監視対象の危険団体であったわけですが…
こう言った悪のサタンである悪魔的宗教や、国家破壊のグローバリズムから共同体・ナショナリズムを守る方法はあるのでしょうか。
国家を強化するにはまず国民の意識が重要であって、大衆をなるべく生み出さないようにすることが必要です。
なぜならその畑の土壌が綺麗ならば、制度の番人であるエリートも本来の気高さを兼ね備え、政治家は国士たらんわけです。
全ての人の生活の礎である「国家」というものがどう形成されていくのか、なぜこういう形態になっていったのかを歴史から紐解くことが重要さがわかったかと思います。
日本においては天皇が国を造り、途中政治権力を捨て(聖徳太子以降)、その皇祖神たる権威を持って、国民のために祈り、天皇の大御心に報いるために国民が一致団結をして、神社で五穀豊穣を祈り、商売繁盛を感謝し、祀りごとを神社で行い、人和は語り継がれ、政治は仁愛精神を誰もが理解し、国民生活を安寧にするために共同体の団結力を積み重ねきたのが昭和初期までの日本。
しかしながら日本の政治は、先人の思いを軽んじて、自己利益だけを追求し、いつしかグローバリズムを受け入れ国家共同体の意義を忘れてしまった。その結実として亡国に向かっている我が国において、そのことについて反省をすべき時なのも事実です。
我々は八百万の神に手を合わせてきた感謝の気持ちを忘れてしまった。それはナショナリズムを自ら忘れることなんだと思います。この気持ちを忘れるからつけこまれてきたわけでしょう。
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
苔が結びたる日本国家という世界最古の歴史を持つ国家が存在する意味を、我々は本気で考える時が来ているのだと思います。

ーつづくー
参考にした資料は以下の「富国と強兵」です。ぜひ興味を持たれた方は、「地政経済学」という中野剛志氏が提唱した経世国防のバイブルとして活用されることをお勧めします。
こちらクリックしていただけるとブログによる周知・拡散力があがります。
ご協力よろしくお願いします。
人気ブログランキング
コメント