中野剛志さんの日本経済学新論にでてくる、論語主義の渋沢栄一が認めた金井延の「社会政策主義」というふものがある。これについて考察してみます。




「積極財政」や「公共事業」が必要だというと「社会主義者」だのなんだのと、神の見えざる手を出郷とする合理主義者たち、つまり(物々交換・商品貨幣論・もしくは貨幣すら理解していない)「主流派経済学」的な人や、経済を理解していない自己責任論を云って自分が弱者になると大騒ぎする通称「株乞食」の「新自由主義者」からよく絡まれました。
日本には思考低下のWGIPユートビア民族が蔓延ってしまった。

その際に自問自答したのは、「社会主義」についてはインフラに対しては国家として計画経済をすべきだし、資本主義なのだから民間については資本投入は勝手にやれや。という寛容さが民主主義であるし、まあなんとなくはわかっているが、哲学的に持論を蓄えることはなかなか面倒であると感じていましたが、この著書で答えが見つかりました。
本を読むって大事なんだなーと改めて感じた次第でございます。

そして、先人たちは
明治から近代化を急速に進め、過去の日本の本当の素晴らしさを捨て去っていくことに違和感を感じ苦悩したわけで、憲法起草時の伊藤博文公がどれほど苦慮し公布まで時間を要したのかで理解できるわけで、
それら日本の國體護持の積み重ねから生まれた、すなわち水戸学に見られる日本的政治哲学と公における道徳観念の「道」に回帰すべく世界と立ち回っていくには、やはり社会実装哲学の「道」とも言える「プラグマティズム」が重要であったわけで、なにもこの当時の問題解決策でもなんでもなく、現代においても「何が重要で何を優先すべきか」という観念においても、生きた思考方法であると思いますね。

バランスとプラグマティズム。
国家安寧を策謀するうえで、公の政経を中庸で捉え、社会に実装するためのあるべき道を模索する。
これによって公共政策というのは解決手段となり得るのだと思います。

金井延の云ふ社会政策主義とは
「経国済民の要道成し得るには、今まで存在してきた、個人の自由に任せて出来得る事柄に就ては、なるべく個人をして自己の責任に於て之を自ら処せしむべしと云ふ主義を取る。然れども個人の力では到底及ばざる者である。または個人の力であつては不備不完全の所があります事柄に就ては国家が立ち入って保護すべきは保護し、賠償すべきは賠償すべしと云ふ主義である。」

それを踏まえると、
社会政策主義とは、改良することであり、その実践には「人間観」と「社会観」を捉える中庸さが必要であると云ふことで

●「社会主義」の節制と秩序の求心力。
●「個人主義」の自由と進歩の遠心力。
これらを中庸(バランス)を通して解決していくことが肝要。偏重してはならない。

そしてさも偏重するならば、
●「社会主義」はそもそも極まれば「革命」であるから、蓄積をいとも簡単に体制側の個人主義に基づく合理的欲求により破壊をする。
●「個人主義」による放任主義つまり「経済自由主義」により、思考停止的な合理性追求による破綻、つまり終焉を迎えてしまう。

このように両者のあり様を並べてみると、「合理」を求めるということは「後退」させていくものであると結論づけられる。

そういうものたちを粛清すべく意思決定はしたいものである。
いや、これも「合理的判断」であるわけです。あぶないあぶない。

社会とはそういう難しさを孕み、それをうまく立ち回ることがコミュニケーションであり、社会実装と言われること、つまり「社会とはそういうもの」であって、「うまく立ち回り中庸により実装させること」これすなわち「道」という。

何事も思い通りにゲームのようにはうまくいかないものです。
その実装方式により得られる結果を見据えて、国づくりをしていくことが「道」すなわち「プラグマティズム」なのでしょう。



コロナ渦でも春は来ました。

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小林秀雄の政治学 (文春新書 1306)
中野 剛志
文藝春秋
2021-03-18





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