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昨日から例の動画をみて、「中野さんさすがだわー。冗談はよしだ松陰って言わなかったわー」って思いながら講演をみておりました。
だれか話題にしてないかなーって探したら、界隈では論争が起きてましたね。
みんな中野剛志さんに少なからず影響を受けているんだと思います。

中野剛志さんのMMTの解釈論争はあとでじっくりつめようかなとおもいつつ、お昼休憩時間にざっくり浮かんだこと早く書かないと忘れてしまうので出します。
しかしツイッターは便利よね。反応わかるし。

荻生徂徠の国体学もちゃんとブログ書かないとダメだな。
ここから尊王攘夷の水戸学、つづいて福沢諭吉に引き継がれ、
グローバリストの司馬遼太郎にこの崇高なプラグマティズムという「公の政治の道」を否定されてしまい、戦後が生み出した「合理性」で国を壊しているどんぐり民族が生まれ、「自己責任論」をこっぱずかしくもなく吐ける世の中になってしまったわけだ。
しかしツイッターは簡単に投稿できるから便利だったなー。やはり主張をするから言論空間というのは成り立っていて、悪しき合理主義者が書く言葉の洗脳力はすざましい。
そういものを退治していくことも、また活動である。

中野氏曰く、
「徂徠は、先王の道によって示された「祭政一致」という普遍的な政治的価値によって、日本の国体を正当化しているのである。ナショナリストなのである。」



この「祭政一致」とは「日本の神道・皇統」のことである。祭り=まつりごと=政治。
天に祈る、豊穣を祈願する、そして「民の竈」。
これ即ち、民の安寧を公がまつりごとで行うことであり、

これにより、古来、公という政治を行うものと、国民の間の「仁愛精神」つまり信頼が成立していたわけです。
この基本原則を定義づけたのが、伊藤仁斎から荻生徂徠であるわけで、
伊藤仁斎は、日本国家に根付いた八百万の神への感謝の精神から生まれる、本来あるべき姿の道徳精神を定義づけた。
荻生徂徠は、社会の中の公と民との仁愛忠信、公たるものの政治精神を定義づけ、国家観について神道という古来から日本に根付いた国体を再解釈して論じた、
この二人は日本を代表する政治哲学者であるわけですね。

人の道を思考することが哲学というのであれば哲学なんでしょうね。宗教ではございません。


そして、それを我々に伝えた中野剛志という男のいう「プラグマティズム(実学)」という社会の中の人の道、共同体の中の人の道、国家という中の人の道、という先人から学び解釈を通して得た哲学は、
個人を合理的に見つめる者には理解できないわけであって、
これを理解できないということは、政治家には不向きなのでございます。

彼の思考による全ての世に出ている哲学的理論に対するプラグマティズム化、すなわち「社会への実装化」作業を理解して、彼の話を理解しない限り、ただの警笛で終わってしまう。
一人一人がこれをプラブマティックに実践行動をしないと、
今の日本の衰退を止められないわけでございます。


 









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