「中庸」さがいかに重要であるか。

桜井誠さんや瀬戸弘幸さんはじめ日本第一党・行動する保守の柱ともいえる西村斉さんが、よくこの言葉を使っていました。





*斉さん勝手に使ってすみません。
もともとナショナリズムを体現してきた方ですが、この中庸を理解し柔軟性を持ち合わせているので、保守と言われる人の中から経世済民について、経済や貨幣を理解して周知していることからも、中庸であることは人の幅を広げることにつながるのだと思うわけです。この中庸であることについては桜井誠党首もよく自民党批判をする際に説いていましたね。

さて、今日も読書をサクサク続けていこうとしたのですが、中野剛志さんの本を読み進める上では、重要なことをさらっと書いているので、読み進める上では斜め読みなどせず、よく噛み締めていかないと、理解できないことはとても勿体無いので遅いです。
そして「中庸」については、いろいろ長い前置きについては理解に役立つのですが、省略しております。
あまり書きすぎると怒られるでしょうから。書評という意味合いで、全部の文字が心に残る重要なことばかりのこの本のほんの一部で、我々がナショナリズムを前提とした、反緊縮を前提とした戦いにおいて重要であるポイントを書き留めました。ぜったいこの本は全ての人に読んでいただきたいです。もしかすると生きることについても助けになるかもしれませんね。
中野剛志さんは当時からこのことを伝えグローバリズムの一方的な日本開国思想を否定してきたと思うと、私のような小物ではございますが、参戦遅かった感は否めないわけです。さ、始めましょう。


「活物」とは命あるものという意味である。
儒学において「理は即ち気の後ろなり」、即ち「理」とは活物である世界を前提としているとある。
理は物事の真髄を追うことであるから否定されるべきものではないが、上記の通り、理はこの世界を前提としているならば、その世界を理のみで解き明かせることはできないはずである。
その前提を忘れた朱子学の孔子という聖人が説いた言葉の定義について誤解を指摘した伊藤仁斎は、「理が有効な場面は無機質のような変化のない物事に対する分析についてである。」といっている。
また、朱子学の「現実」と「理想」を厳密に区別をして個別に定義しているから、「理想の理」と「現実の道」の往来を俯瞰して答えに近づくことができないと言っているのだと思われる。
しかしながら、仁斎は「理」の分析自体は否定しているわけではない。否定しているのはそのプロセス、つまり朱子学が「合理主義」が導き出す「理」が「活物」をみていないのだから、世界の根源にはなり得ないし、実際には「世界の根源」などは導き出せないといっている。

そして達観したであろう「気」という定義であるが、これは「世界は常に動いている。止まることがない。この「生生化化」(自然が万物を生み育て宇宙をつくりあげていること)の運動それ自体を指して「天地の間は一元気のみ」として、これ以上の道理はないことを強調し、これ以上根源をたどることはできないと、朱子学の「理」を否定している。

我々の世界は常に変化する動態的な活物の世界である。

であるならば活物を捉える「道」という動態をどのように捉えるのか。
あらかじめ抽象的な原理原則で示すものではなく、実際の生活の中の試行錯誤の結果として決まるのであり、要は場面や状況という動態で決めるもの。その柔軟な追求であるわけです。

従って、朱子学がその合理主義で前提の間違えた「理」を追求したとて、究極の真理に到達することはできないが、「気」というものを正しく捉え、近づく努力をする。それが「道」なのである。
仁斎は、論語から派生して生まれた日本の国学だる「古義学」でそれを説いている。

そして伊藤仁斎による「道徳」の定義とは、
思いやりや正直さである「仁義礼智」に到達することだが、しかしながら、おもいやりや正直さを無理に追求すると、他人にとってはありがた迷惑であり自己満足の場合もある。これは現代人の我々も一度や二度は経験したことだろう。従って、その思いやりや正直さは基本であることは間違いないのだが、頑なにそれを求め、押し付けるのではなく、状況に応じた柔軟さが必要なのである。
つまり道徳を追求する場面において、「原理主義」「厳格主義」に動くのではなく、良識に基づいて柔軟に行動することが、「道に近し」を実現するえで「至当」(きわめて当然な最もであること)であるわけです。

そのバランス感覚が「中庸」つまり良識を働かせたバランス感覚を持つということです。

それぞれの教えを否定するつもりではないです。中庸についての説明としての一例ですが、
仏教(教えという意味での)のような経験的なものを無視した「超越的真理」だけでは、虚しさという空虚しか待ち受けておらず、
ましてや韓非子の法家思想のような「経験的実践」だけでは結果が全てという冷酷さしか残らない。
これら「超越的真理」「経験的実践」をバランス感覚により追い求めることこそが「道に近し」つまり「中庸」である。
そう伊藤仁斎は言っているのです。

これは仏教や韓非子に関わらず西洋の「功利主義」と、超越的な真理の追求である「カント主義」に置き換えても同じことです。キリスト教しかり。


『この道徳理論の歴史について、新設が提唱されるたび、人々は「超越的なもの」と「経験的なもの」を言ったり来たりを繰り返しているだけだ。何百年たっても同じだ。』と仁斎は笑った。

中庸であり道を追求することが重要なのですね。そういえば「神道」は道であるわけですが。
ということで本ブログに興味を持たれた方は、昨日のブログも合わせてお読みいただければと思います。





日本経済学新論 (ちくま新書)
剛志, 中野
筑摩書房
2020-05-08




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