昨日正月はブログを休むと言っておきながら、本を読むとどうしてもアウトプットしたくなるという衝動は、どこかで抑えねばならない。でもそれほどインパクトのある一説でした。この先本を読み進めるたびにブログを書いていたらいつこの本を読破できるのだろうか。中野剛志さんの本はいつだってそうです。

中野剛志さんの「日本思想史新論」に出てくる、伊藤仁斎の朱子学批判と日本独自に成長発展していった「古義学から水戸学」を説明する中で、生きた学問とは?なぜ経済学が間違いを伴うのか?
という観点でとても重要だと感じたことを論じてみる。

朱子学は「理」によってこの世は支配されているという。ようはすべては一つの真理にあるとするもの。
しかしながらその元となる孔子の論語は「天理」「人理」とは言っておらず、「天道」「人道」と言っている
ここが大きな間違いの始まりなのである。
「理」は振り返りの条理、自然の摂理を求む字であり、「道」は動態を表す活字である。
その「道」とはコミュニケーションである。つまり天道でいえば陰と陽の往来、人でいえば歩み、人間でいえば社会との関係性である。
この道という意味を理解して「人間」という意味を考えれば、「人と人の間」すなわち社会(ネイション・共同体)という中における「国家の一員」であること、家族や友人関係ということになる。
であるから「人と人が関係しあい連携しながら道を作っていく」と解釈できる訳である。
まさに「道」とは「活字」つまり生きている・生きていくという意味の言葉である。

おそらくこれが日本の古義学の源泉であり、支那朝鮮で普及してきた儒学から派生した朱子学の、生を無視した単なる一個の人という、すなわち生きるという前提を無視した真理だけを求める「合理主義」「個人主義」は宗教であるともいえる。それが物事の解決の手段ではないからだ。従って、我々が物事の判断に必要な知識としては何の意味もなさない。そんなものにすがっても、生きることが前提ではないので解決策にもならない。
信じるではなく、我々人間が欲する考える術が「道」とも言える訳です。
人は物事を解決に導くために学ぶのですから。

もう少し掘り下げれば、木は土と水と陽がなければ育たない。魚は海水がなければいけない。人は人と人が支え合わなければ生きていけない。(一人で生きていると勘違いしている人は服もきてないし、電気も使わず、所得も得ず、病院にもいかず、水道水も飲んでいないということ)
その「内生と外生」「主観と客観」の関連性が「道」である。

この伊藤仁斎の説いた「道」を踏まえれば、「政治が判断する財政出動を否定して民需だけで経済活動は行わなければならないと主張する、社会の仕組みを理解せず、人が生きる上で必要な経済活動を度外視し、経済真理教を追求し続ける馬鹿げた学問である主流派経済学を採用し続け、大恐慌やリーマンショックのようなデフレーションを繰り返すのかについては、「人の営みという社会における経済活動の前提を間違っている、見ようとしていない」からということなのです。

もしそんな間違いだらけの人を殺し続ける「主流派経済学」から足を洗いたいと思うなら、印籠を突きつける切れ味鋭いMMT(現代貨幣理論)も必要だが、こういった「古議学」を学び「動的な生を前提とした社会関係における道徳」について学ぶことをお勧めする。主流派経済学が無意識に行なっている「不道徳」さに気づく、つまり「人の道」を踏み外さなくて済む訳です。

これはすべての政治に関わるものが国家観を理解するうえにおいて「道」を学ぶ必要があるのかもしれない。




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